No.1 飛び込み自殺の男 それはある雨の日の出来事であった。 雨と言っても細い糸のような雨が降っている位だったので、傘をささなくとも左程濡れずに済んだ。 朝の通勤ラッシュで人々が犇めき合う駅のホームの中、ある青年は電車が来るのを待っていた。 青年は近くに設置してある時計に眼を向ける。 時間は8時7分。 待っている電車が来るまであと3分。 そして青年は視線を犇めく人々でできた壁に向ける。 正直言って、見ているだけで息苦しい。 暫くその壁を見るともなく眺めていて、ふとある一人の男に眼が留まった。 見たところ、何処にでもいる様なサラリーマン。 青年も自分が何故その男に目が留まったのかわからない。 そこで漸く電車が来るアナウンスが流れる。 と、ふいにその男がふらりと前に出る。 青年があっ!と思った時にはホームに丁度入って来た電車に撥ねられていた。 そこで漸く事態に気づいた他の客達が騒ぎ始める。 ざわめく群衆の中、青年だけが凍りづいたように言葉一つ発さずに立ちすくんでいた。 線路上に投げ出されている、元は人間だったはずの異形な形の塊。 通常、決してこのような場所で嗅ぐ筈のない錆の臭い。 この状況下で何かしらのショックを受けないはずはないのだが、青年を凍りづかせなのは別の理由。 眼が合ったのだ。 男が線路上に飛び出し、電車に撥ねられるその瞬間に。 青年と眼が合った男は、緩慢な動作で口の端を持ち上げ―――――嗤ったのだ。 青年はその時、心臓を氷の手で鷲掴みされたように冷たく重い衝撃を受けた。 青年から色と音が一気に消え失せた。 時計の針は丁度10を指していた。 それからしばらくの間、青年はその場に立ち竦んでいたが駅員に声を掛けられて漸く我に返り、会社に体調が悪くて休む旨を連絡し、出社せずに帰宅した。 その日の晩、眠りについた青年はうなされていた。 今朝、電車へ身投げした男が夢の中に出てきたのだ。 夢の中に出てきた男は青年の目の前に佇んでこちらへと視線を向けてくる。 男を初めて見た時の放心したような虚ろな視線でもなく、電車に撥ねられる瞬間に垣間見た狂気じみた視線でもない。 淡々とした何の思いも含まない視線。虚無と言う言葉が一番相応しい表現だろう。 無言の視線の圧力に耐えかねた青年は無意識に一歩後ずさる。 ここは夢の中なのに何処ににげようというのか。 眼を覚まさない限りここからは逃げ出すことはできないだろう。 ふいに男がうっそりと笑った。 青年はその笑いを見て夢の中にもかかわらず、ざっと血の気が引くのを感じた。 四肢の末端まで凍りつく。 男は笑いをかたどった口のままただ一言、言葉を口にした。 「次はお前だ」 翌朝、あまりの夢見の悪さに飛び起きた青年は夢の内容を覚えてはいなかった。 ねっとりとまとわつく不快感を拭えずにいた。 飛び起きたせいでいつもより早く起きたためか、靄がかかったような半覚醒状態で青年はいつも通り出勤した。 青年はいつものように時間を確認するために、設置してある時計を見る。 時間は8時7分。 電車が入ってくるのを待っていた青年は、電車の到着を告げるアナウンスと共にふらりと歩を進める。 ホームの端までの距離は青年の歩幅で5歩。 電車が入ってくるので前へ出るのは危険なのであるが、青年は気にも留めない様子でふらりと歩を進める。 ホームの端まで5歩・・・・・・。 あと4歩・・・・・・・・・・。 3歩・・・・・・・・・・。 2歩・・・・・・・・・・。 1歩。 キィィ――――ッ! 電車の甲高いブレーキ音がホームに響き渡った。 時計の針は丁度10を指していた。 先日に続いての騒動に、駅の中に異様な空気が流れる。 幸い、青年はかすり傷程度で済んだ。 青年の行動を不審に思った近くにいた他の人が彼を引き止めたのだ、間一髪で。 その後、青年にどうしてあの時飛び出そうとしたのかと聞いたところ――――― 「手招きをして呼ぶ人がいたから・・・・・・・・・」 とそう一言だけ答えたらしい。 2006/2/10 |